Dr. Sally Fox
- 茶綿との出会い -
1985年
同僚の鞄の中で眠っていた茶色い綿花。
運命の出会いから綿花業界の常識を大きく変える彼女の奮闘が始まります。
当時の茶綿は、繊維が太く糸にできない代物で、その害虫を寄せ付けないという特性を何とか白綿に付与できないかという試験の為に使われていました。色を晒してから染色することが当たり前の当時の常識の中で、茶綿に有用性を見出す人は誰一人としていませんでした。
慣れ親しんだキャメルや原着ウール(もともとの毛の色が黒や茶の羊から作った毛糸)によく似た美しい色をした茶綿を一目見た瞬間サリー博士は「これだ!」と閃きます。
ある悲痛な出来事を経験して“染めない”ということに対して強いこだわりをもっていた彼女。絶対にこの綿を世の中に送り出したいという決意で私財を投じ、自分で畑を耕しながら茶綿と超長綿のブリーディングを始めました。
花が咲くごとに一つ一つ受粉させ、収穫し、記録し、選別する。
気の遠くなるような作業をこつこつ地道に繰り返し、その結果USDA(アメリカ合衆国農務省)の目に留まる程の品質にたどり着く事に成功します。
90年代、こうして一躍評判になったサリー博士とカラードコットンは日本の紡績企業やアメリカの大手デニムブランドに採用されるまでになり、多い時には世界中で38社の紡績との取引まで拡大します。しかし資金繰りや他の農場からの圧力、繊維産業の不況等、常に苦労の連続でした。
2000年代に入ると取引していた紡績企業やアパレルが軒並み倒産。最大の窮地に追い込まれます。
そんな彼女を救ったのが、大正紡績の近藤氏と綿花農場をもつドーシーアルバレス氏。
近藤氏もまた茶綿に限りない可能性を感じた一人。
サリー博士と茶綿のことを知った近藤氏はコンタクトを取り、大正紡との綿花栽培の契約を交渉しに現地に訪れたそうです。
その栽培地として、自身のニューメキシコの農地での栽培を快諾してくれたのがオーガニックコットンのパイオニアの一人としても知られるドーシーアルバレス氏でした。
彼女のひたむきな姿勢と茶綿の魅力は多くの人々の心を打ち、多くの賛同者を得て世界へ広がっています。たった一人で始めた綿花界の常識を大きく変える改革。
今では多くのブランドで愛され、使用されています。
※私たちはこの文章の中で、サリーさんを”博士“と呼んでいます。
来日した彼女にこのことを話すと、“残念だけど博士の学位はとっていないの”と教えてくださいました。
私たちは、学位云々よりも、この研究に心血を注いでこられたサリーさんに敬意を表したいのでそう呼ばせてもらってもいいですか?とお聞きすると嬉しそうにはにかんで、“そういうことなら喜んでお受けするわ”とお答えいただきました。このような経緯からこのサイトでもサリーさんを博士として紹介させていただきます。
Rarity
カラードコットンの希少性
サリー博士曰く、もともと、古代の綿花は茶色く色づいたものが普通で、世界各地に現存するのだそう。
染色性等の為に品種改良を重ねることで今の白い綿が作られました。
サリー博士は逆に、この茶綿を現代に蘇らせようと品質改良に試行錯誤を重ねたのです。
もともと繊維が短く紡績できない粗雑なワタであった茶綿。研究する中でさらに、茶綿の堅牢度(色落ちに対する強さ)にも問題があるものとないものがあるのだと判明しました。
受粉、採取、検査、選別。品質の改良なくして市場開発はできないという強い信念の下、色褪せしにくく、より長い繊維長を持ったカラードコットンが生まれました
今では茶綿2種、緑綿2種計4種のカラードコットンが栽培可能なんだそうです。
緑綿、というのは茶綿を開発途上に突然変異によって生まれた、ほんの偶然の産物。
茶綿の汎用に情熱を注ぐ博士に対する“ギフト”とも呼べる存在です。
茶色はタンニンによるもので、害虫に強く、有機肥料だけでも充分生育する強い綿になりました。特性は少しずつ違いがありますがどちらも抗菌作用を持つという特徴があります。
それぞれ白綿とのブレンドによって濃淡をつけたもの、媒染という方法で色に変化をつけたもの、等大正紡とサリーさんの取り組みの中で様々なカラーバリエーションが誕生しています。
Policy
サリー博士は生物学者として植物の研究を行う傍ら、自身学費や生活費を補うために手芸教室を営み手芸を教えていました。
その教室での教え子の娘さんが高校で美術の先生をされていたそう。
当時はタイダイ(絞染め)が大流行しておりこれを手袋なしで行ってしまったことにより脳に障害を負い、このことが元で彼女は亡くなってしまったそうです。
なぜ染料でこんなことに??調べてみると染料メーカーと農薬メーカーは同じ会社でした。
奇しくも高校時代の恩師から農薬の乱用を改善するために昆虫学者への道を進められていたサリー博士。
この悲痛な出来事をきっかけに“染めない”ことへの想いを強くし農薬についての研究深めていくことを決意されたそうです。
薬品に苦しむ人を、すこしでも減らしていきたい・・!
大学卒業後の海外協力で行ったザンビア。
そこで、究の材料の1つとして使われていた茶綿と出会います。
ウールの世界では黒、茶、ベージュ、グレー等もともと色のついた羊毛を使用した毛糸はなじみのあるものでした。
茶綿をうまく育てられれば染料を必要としない糸になる!そんな考えが閃きます。
彼女が茶綿と出会ったのはまさに運命だったのかもしれません。
どんなに厳しくても、自分の信念を曲げず追究する彼女のひたむきな姿勢。
そうした彼女の想いが実を結んだ、ナチュラルで飾らない美しさが特徴的なカラードコットン。
おこがましいかもしれないけれど僕たちNature Geek FC Planningは彼女の同志としてこの偉大な先駆者が灯した灯火を、ともに後世へと引き継いでいきたいと思っています。
母として
カラードコットンのパイオニアとして有名なサリー博士。
あまりフィーチャーされてきませんでしたが、実は娘さんが1人いらっしゃりワーキングマザーとして娘を育て上げた母親でもあります。
昼夜問わず研究に没頭する彼女にとって、研究と育児の両立はどんなに厳しかっただろうと質問をしてみました。
彼女は深くうなずきながら答えてくれました。
“確かに、皆さんにとってもそうであるように、私にとっても仕事と育児の両立は簡単じゃなかった。
娘が小さい時は畑に行くときは必ずおんぶしていったし、ある程度大きくなってからも近くに学校もナニーもいなかったから私たちはいつも一緒だった。”
それでも、と彼女は答えます。
“私が恵まれていたのは、私は事務所に働きに出るわけじゃないから身なりを整えたりしなくてもよかったこと。
それに自分ですべてを行っているから娘のことと研究作業の順番を入れ替えるのは難しいことじゃなかったこと。
結果それが娘の為になったのかはわからないけど、私にとって幸運だった。”
サリー博士が紹介してくれた写真の中の娘さんはどれも笑顔でいっぱいでした。
二人にとって大変なことはきっとたくさんあったに違いありませんが、娘さんにとっても母親と過ごした時間はとても貴重なものだったのではないかと感じます。
娘さんは今年で22歳。無事大学を卒業したのよ、と語るサリー博士はとても誇らしげでした。
決して平坦な道のりではなかったはずなのに、その苦労を少しも顔をしかめずに茶目っ気たっぷりに語る彼女彼女の前向きな人柄はその笑顔にも表れていて、彼女が育てたカラードコットン同様周囲を魅了する温かな魅力にあふれていました。